熊本YMCA本館献堂式 第1部礼拝奨励内容

2021年4月17日に開催した熊本YMCA本館献堂式の第1部礼拝、カトリック宇部教会の片柳弘史神父による奨励の内容をご紹介いたします。

エフェソの信徒への手紙 2章14節~22節
実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。

平和の福音

「キリストにおいてこの建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります」とパウロは言います。今日わたしたちは熊本YMCA新会館という立派な建物の献堂を祝っていますが、ここでパウロが言っている「建物」というのは、むしろそこに集うわたしたちの心のつながりであり、さまざまな文化や言語、考え方を持った人たちが、それぞれのよさを惜しみなく出し合って作り上げてゆく共同体のことです。イエス・キリストを土台とし、あらゆる違いを越えて互いを受け入れ、助けあいながら共に生きてゆく共同体を作るために、この建物がある。そのことを忘れないようにしたいと思います。

「キリストはわたしたちの平和である」。なぜなら、キリストは「ご自分の肉において敵意という隔ての壁を壊し」「二つのものを一つにする」からであるとパウロは言います。どうしたら、キリストの平和のうちに一つになることができるのでしょう。敵意がどのように生まれるかというところから考えてみましょう。

 敵意が生まれる一つの原因は、自分たちのやり方だけが正しいという思い込みでしょう。聖書に登場する律法学者たちのように、自分たちが先祖代々引き継いできた習慣こそが正しい、それに従わない人たちは間違っていると考えると、そこに壁が生まれます。キリストは、この壁を壊しました。正しいのは神だけであり、人間の中には誰一人として完全に正しい人などいない。すべてを知り、正しい判断をくだせるのは神だけである。キリストは、ご自分の身をもってわたしたちにそのことを教えてくださったのです。

 自分の限界をわきまえ、正しい答えを出せるのは神だけだと知るとき、わたしたちはもう相手を裁くことができなくなります。自分と違った考え方をする相手と出会ったとき、「わたしだけが正しい。あなたは間違っている」といって相手を切り捨てることができなくなるのです。わたしたちにできるのは、「神よ、どうかわたしたちが共に生きてゆくための道をお示しください」と祈ることだけです。互いが自分の限界を認め、神様の前に一緒に跪いて祈るとき、わたしたちは一つの体となります。神の真理の前で、わたしたちの心は一つに結ばれるのです。

 わたしはカトリックの神父で、YMCAはプロテスタントの精神を土台とする団体です。残念なことに、カトリックとプロテスタントはこれまで互いに、「自分たちだけが正しい。相手は間違っている」と裁きあい、争いあうことが多かったようです。しかし、「正しいのは神だけである」と教え、互いに愛し合うようにと説いたイエスの弟子として、これは実に嘆かわしいことです。

 もし互いに自分だけが正しいと主張し、相手の意見にまったく耳を傾けずに論争するなら、それはどちらとも正しくないというしるしに他なりません。周りで見ている人たちはあきれ果てるでしょう。逆に、互いに相手の意見に耳を傾け、共に生きてゆくための道を求めて祈るなら、それはどちらとも正しいというしるしです。周りで見ている人たちも、この人たちは誠実な人たちだと思うに違いありません。正しさとは神のみ旨のままに生きるということであり、自分の限界を知って神の前に跪くことができる人以外、正しく生きられる人など誰もいないのです。自分だけが正しいと主張し互いを裁くこと、争いあうことを神が望んでおられないのは明らかです。カトリック、プロテスタントの違いを越えて共に神の前に跪くときにのみ、わたしたちは、神の子として正しく生きられるのです。

 キリスト教以外の宗教の人たちとの関係にも同じことが言えるでしょう。神の真理はすべての人に示されており、キリスト教徒がいつも神の真理を生きているとは限りません。むしろ、キリスト教徒よりも他の宗教の人、あるいは宗教をもたない人の方がよほどキリスト教徒らしく生きているという場合さえあるのです。その人たちと心を合わせ、共に生きてゆく社会を作り上げてゆくこと。それこそ、わたしたちのとるべき態度でしょう。宗教だけに限りません。言語や習慣、考え方など、あらゆる違いを越えて、神の真理の前に一つであること。一つであろうと努力すること。それこそ、わたしたちがキリストの弟子であることの何よりの証なのです。

 敵意が生まれるもう一つの原因は、自分が持っているものへの執着だと思います。財産にしても、地位や名誉にしても、「これだけは絶対に手放せない」というものがあると、それを奪おうとする人、奪う可能性がある人たちとの間に敵意の壁が生まれます。神のみ旨が分かち合うことだと分かっているのに、「これだけは手放したくない」と駄々をこねるなら、神のみ旨がゆるしであると分かっているのに、「あの人だけは絶対にゆるせない」と自分の思いにしがみつくなら、神との間にさえ敵意の壁が生まれるでしょう。キリストは、この壁を壊しました。執着を手放すこと、自分に死ぬことによってのみ、わたしたちは本当の命を生きることができると、イエスは身をもってわたしたちに教えてくださったのです。

 わたしは神父になる前、インドのコルカタにあるマザー・テレサの施設でボランティアとして働いていたことがあります。ある時から神父になることも考えていたのですが、神父になるには手放さなければならないものがたくさんあります。清貧・貞潔・従順と言いますが、修道院に入るためには、財産を放棄し、終生独身であることを誓い、自分の思いのままではなく修道会を通して示される神のみ旨のままに生きることを誓わなければならないのです。これは大きな決断です。果してすべてを手放すことができるのか。なかなか決断できないわたしに、マザーはあるとき「何を迷っているのですか。あなたにはもっと美しい人生が待っています」と言いました。しがみついているものを手放しさえすれば、もっと美しい人生を生きられるのに、なぜみじめでちっぽけな今の生き方にこだわっているのかということです。

 いまから思うと、マザーが言っていたことはまったく正しかったと思います。手放すことで、どれほどの喜びが待っているか、執着している限りわたしたちは知ることができないのです。自分に死ぬこと、古い自分を十字架にかけることによって、復活の命に生まれ変わることができる。イエスは、身をもってわたしたちにそのことを教えてくださいました。しがみついているものから手を放して、分かちあう道、愛しあう道を選ぶとき、わたしたちは復活の命を生きることができるのです。

 わたしたちを一つの体、一つの建物とするために、キリストは二つの壁を壊してくださいました。真理を示すことによって、自分だけが正しいと思い込む傲慢の壁を壊し、十字架と復活の神秘によって、何かにしがみつくことから生まれる不安や恐れの壁を壊してくださったのです。このキリストを土台として、この建物を通してより大きな人間の共同体、「神の国」を作り上げられるよう共に祈りましょう。

 全能の父である神様、今日わたしたちをこの場に集めてくださったことを感謝します。わたしたちがあらゆる違いの壁を乗り越え、傲慢の壁、不安や恐れの壁を壊して一つになることができますように。この熊本の地に「神の国」を実現することができますように。どうぞ熊本YMCAに集うすべての人々の心をあなたの愛で満たし、お導きください。わたしたちの主、イエス・キリストによって。アーメン。


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